「栄華栄耀にふけりて、おもうさまのことなりというとも、それはただ五十年から百年のうちのことなり。~まことに死せん時は、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、我が身にはひとつもあい添うことあるべからず。
されば死出の山路の末、三途の大河をばただ一人こそゆきなんずれ。これによりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定して参るべきは安養の浄土なりと思うべきなり。」(御文章・電光朝露の章)
熊野神社参拝のため、後鳥羽上皇が京都を留守にしている間に、上皇に使える女官(松虫・鈴虫)を法然の弟子、住蓮と安楽が出家をさせてしまったという事件が起きました。これに激怒した後鳥羽上皇は、住蓮と安楽のみならず全く関係の無い善綽・性願も死罪。法然上人・親鸞聖人等八名は、僧籍剥奪の上流罪、さらに念仏停止令を出されました。これが世に言う建永の法難です。
当時、公家社会に死罪はありませんでしたし、念仏を称えてはならないという思想弾圧も前例としてありませんでした。これは、後鳥羽上皇の私的な思いによって実行されたものでした。これほどの事を独裁的に行えたのですから正に「栄華栄耀にふけりて、おもうさまのことなり」の人生を歩まれたお方でありました。
しかし、死を目の前にした時、思うように生きられるのはたった五十年から百年の間の出来事に過ぎない事に気づかされます。死の旅立ちには、これまで頼りにしていた家族や財宝も、何一つ私に付添うものはありません。真っ暗な山路を歩むのも三途の大河を渡るのも、たった一人。ただこれまで行った悪業のみがこの私に付き添います・・・。
「これによりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定して参るべきは安養の浄土なりと思うべきなり」人を惑わす、戯言の念仏など称えてはならないと、念仏停止令を出された後鳥羽上皇の人生の結論が「たのむべきは弥陀如来なり」でした。
「西法寺だより」112号より