鬼滅の刃 2020/11/25

住職の法話

映画「鬼滅の刃」の公開から一ヶ月で、興行収入二百五十九億円を突破したそうです。歴代一位の「千と千尋の神隠し」の三百八億円を塗り替えるのは、時間の問題だと騒がれています。

「何故こんなに人気があるのかな?」と思い、実は「鬼滅の刃」のコミック本を、全巻読んでみました。私の子供の頃のコミックは(昔話の桃太郎もそうですが)悪い人がいて、それを善い人が懲らしめるという内容が多かったように思います。つまり、善人はどこまでも善人で、悪人はどこまでも悪人。しかし「鬼滅の刃」の鬼達は、鬼になっていく理由があります。しかも、それが自分自身の体験と重なるところがあったりします。

例えば 親が子を愛情深く思う話(私の時代は「大草原の小さな家」)を聞いて、現実の我が親との違いに、心ざわめき。大切な人・家族を守りたいと思いながら、未熟で守れなかった悔しさ。しかも、その目的と手段がいつの間にか入れ替わってしまって、何時までも走り続けようとしたり・・・。初めは、悪い鬼から人間を守る善人の主人公と自分を重ねていましたが、読みすすめてみるうちに、鬼(悪人)の姿と自分を重ねていました。

下弦の伍の鬼『 類(るい)』が鬼滅の刃に切られた時、両親ではなく自分が悪かったと気づきます。

「俺が悪かったんだ、でもお父さんやお母さんと同じ所には行けないよね。地獄に落ちるしかないよね」
と言う類は

「大丈夫、お父さんとお母さんは地獄でもどこでもずっと一緒にいるよ」という両親の愛情に触れると これから両親と共に歩む地獄という名の世界が地獄(苦の世界)ではなくなっていきます。

仏法という鬼滅の刃で、自分の心の中に潜む鬼の心を照らし出されて 
我が身こそが「鬼(悪人)」であったと気づかされた時
仏さま(両親)の「どこまでも一緒にいるよ」という優しいお心が「鬼の心(悪人の心)」にこそしみじみと染みてきます。
                      「西法寺だより」109号より